日本が初めて参加した1912年ストックホルム五輪から108年。日本はこれまで、夏冬合わせて156個の金メダルを獲得した。その中で、印象に残る各種目の日本の金1号を紹介する。
◇馬術の英雄「バロン西」
日本の馬術関係者が「忘れられない最大の英雄」とたたえる。1932年ロサンゼルス五輪の障害飛越で金メダルを獲得した西竹一。90年近くが過ぎた今も、馬術界でただ一人のメダリストだ。外交官の父親が授かっていた爵位(男爵)と莫大(ばくだい)な財産を受け継ぎ、栄冠を手にした地、米国での振る舞いが華やかだったことから「バロン(男爵)西」と呼ばれた快男児だった。
西は軍人でもあった。陸軍騎兵学校で馬術を磨いて世界の頂点へ。しかし、戦時色が濃くなるにつれ、破天荒さが疎まれたのか「冷遇」され、太平洋戦争の末期に激戦地となる南方へ。45年3月、硫黄島で戦死した。42歳。城山三郎の小説「硫黄島に死す」の主人公としても知られている。
愛馬「ウラヌス号」と、文字通り人馬一体。馬体が非常に大きく、気性が激しいとされたが、徐々に調教した。175センチ、70キロほどのがっしりとした体格の西は、柔道や剣道の有段者で並外れた脚力の持ち主だったという。欧州を転戦して好成績を残し、自信を深めた。
高級オープンカーを飛び越えるなど派手なエピソードも。日本馬術連盟副会長で72年ミュンヘン五輪などの代表でもある竹田恒和さんは「ウラヌスのように強い馬を乗りこなせる高い技量があったと思う」と評す。「まつわる話も豪快だが、(危険が伴う)車上の飛越は確固たる技術がなければ誰にもまねできない」
迎えたロサンゼルス五輪。西は冷静な手綱さばきでミスを抑え、地元の優勝候補、チェンバレンを破って金メダルをつかんだ。
硫黄島での戦闘。西の部隊に対し、米軍から投降の呼び掛けがあったとされる。声の主がチェンバレンという説も。五輪で争った選手は皆が軍人。西は応じることなく、ウラヌスのたてがみをしのばせて最期を遂げたという。 [時事通信社]
◇馬術の英雄「バロン西」
日本の馬術関係者が「忘れられない最大の英雄」とたたえる。1932年ロサンゼルス五輪の障害飛越で金メダルを獲得した西竹一。90年近くが過ぎた今も、馬術界でただ一人のメダリストだ。外交官の父親が授かっていた爵位(男爵)と莫大(ばくだい)な財産を受け継ぎ、栄冠を手にした地、米国での振る舞いが華やかだったことから「バロン(男爵)西」と呼ばれた快男児だった。
西は軍人でもあった。陸軍騎兵学校で馬術を磨いて世界の頂点へ。しかし、戦時色が濃くなるにつれ、破天荒さが疎まれたのか「冷遇」され、太平洋戦争の末期に激戦地となる南方へ。45年3月、硫黄島で戦死した。42歳。城山三郎の小説「硫黄島に死す」の主人公としても知られている。
愛馬「ウラヌス号」と、文字通り人馬一体。馬体が非常に大きく、気性が激しいとされたが、徐々に調教した。175センチ、70キロほどのがっしりとした体格の西は、柔道や剣道の有段者で並外れた脚力の持ち主だったという。欧州を転戦して好成績を残し、自信を深めた。
高級オープンカーを飛び越えるなど派手なエピソードも。日本馬術連盟副会長で72年ミュンヘン五輪などの代表でもある竹田恒和さんは「ウラヌスのように強い馬を乗りこなせる高い技量があったと思う」と評す。「まつわる話も豪快だが、(危険が伴う)車上の飛越は確固たる技術がなければ誰にもまねできない」
迎えたロサンゼルス五輪。西は冷静な手綱さばきでミスを抑え、地元の優勝候補、チェンバレンを破って金メダルをつかんだ。
硫黄島での戦闘。西の部隊に対し、米軍から投降の呼び掛けがあったとされる。声の主がチェンバレンという説も。五輪で争った選手は皆が軍人。西は応じることなく、ウラヌスのたてがみをしのばせて最期を遂げたという。 [時事通信社]