ちょっとでも上を向いて
全然注意せず見れば、「昔、局アナだった人」だ。
でも、この人、相当な“タマ”なのである。
バリバリのバイリンガルにして空手の有段者。
己の人生をいつもゼロからグリグリ切り開き、
なにものにも縛られず自由に生き続ける。
口下手で赤面症だった気仙沼の子どもが、
いかに人生を作り上げてきたか…そんなお話。
口下手の大学デビュー。
そして空手での渡米
「一切仕送りがなかったので、バイトはやりましたね。港での肉体労働に、映画のエキストラ、ホテルの配膳サービス…。エキストラに関しては、後半の方になると、自分で人材の手配を仕切るようなこともしていました(笑)」
大学時代のエピソードだ。
「“お宅のイクシマとベニー・ユキーデを対戦させたい”って(笑)。当時は全然知らなくて、後に聞いたんですけど、そういうオファーがあったらしいんですね。たぶんボコボコにやられてたでしょうけどね。僕にもその(ベニーと戦う)ぐらいの魅力はあったのかも。少しは速かったし(笑)」
こちらはアメリカ遊学時代のエピソード。ベニー・ユキーデは、70年代にデビューしたアメリカのキックボクサーだ。
早朝のTBSラジオの冠番組が大人気。番組における広告の費用対効果は、すべてのテレビ・ラジオ番組のなかで最高の部類らしい。
屈託なくニコニコ語ってくれる話がいちいち面白いのだが、最近出した『口下手な人のためのスピーチ術』という新書によると、かつては赤面症で、人前で話すことがえらく苦手だったという。
「そのときのイライラ感や不安が手に取るようにわかるので、そんな人たちにも自信を持ってしゃべれるようになってほしいと思って、この本を書きました」
TBSの局アナやフリーアナウンサーとして培った技術や、インタビューをはじめ様々な取材、ラジオパーソナリティとしての経験を取り入れ、人前で話す極意を教えてくれる。
…というような、本の宣伝も兼ねた取材なのだが、生島さんのオモシロ青春トークがとまらない。
宮城県気仙沼市に生まれ、大学進学で上京したのが、学生運動華やかなりし1969年。大きな目標としては「赤面症と引っ込み思案の克服」があったのだが…。
「東京は毎日が刺激的で! うわぁ池袋スゴイ! 新宿スゴイ!と(笑)。来てすぐ、時給120円で『藪そば』の皿洗いのアルバイトを始め、僕、格闘技が好きなものですから、大学で空手の同好会に入り、学生運動の闘士に出会って“人は平等に暮らせないといけないな”なんて考えて」
冒頭のアルバイト列伝はそんななかでの話。完全に“大学デビュー”といっていい。で、学生運動が盛り上がるも、生島さん自身は、主張と自身の日常とのギャップに折り合いが付けられず挫折。そのタイミングでアメリカ行きの話が出てきた。
「空手の先生が“アメリカで空手の指導を手伝ってくれ”と。池袋で興奮している人間にアメリカってねえ…(笑)。で、急遽、五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』なんて読んだりしながら旅立つわけですよ、片道切符でね」
時に71年。1ドル360円の時代。将来のことなど何も考えていなかったという。
「ただ、見知らぬ国でイチから自分で何ができるか試してみたかった、というだけですね」
この人の、何がどう引っ込み思案だというのか…。
いつもすべてゼロから。
どんなときも上を向いて
アメリカでは最初、空手道場に住み込み。空手の指導と空手ショーを生業にしていた。ベニー・ユキーデ戦のオファーもこのころだ。だが、ほどなくリストラ。空手を頼りに来たのにむちゃくちゃだ。
「アメリカはそのへんシビアですから(笑)。まあ僕も学校には行きたいとも思っていたので」
またバイト。テーマパーク併設のホテルでハウスキーパーをやり、アメリカ人家庭に住み込みで雑役をこなし、いちご畑でいちご摘み…アメリカに来て丸2年を過ごし、手元には2000ドルの現金が貯まっていた。そして近くの短大を経てカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学。日本での一般教養課程が認められ、3年生からの編入となる。
ここで選んだのが、ジャーナリズム科。将来の目標が見えたのだ。
「日本でもテレビやラジオには憧れてました。ラジオの深夜放送が好きで、僕なんか図抜けてカッコいいわけではないので、パーソナリティはいけるかもなと漠然と思っていて(笑)。あと、アメリカのトークショーね。ゲストの魅力をうまく引き出して視聴者に伝えるホスト役はいいなあと。そういうことが学校でできたんですよ。ディスクジョッキーのクラスをとると、ミニFMで実際に放送する。授業でトークショー作ったり。で、ロサンゼルスの日本語放送局で作家のアルバイトを始め、そのうちに実際に出演するようになって、地元じゃ結構有名人になったりして(笑)」
それだけでなく、バイトで始めた庭師の仕事が発展して、最後には人を雇って派遣する経営者になっていた。その一方で“全優”に近い成績で大学も卒業。75年に帰国するまで、一切仕送りなしでやり遂げたのだという。
翌年、25歳でTBSにアナウンサーとして入社。驚くのは最終面接ですでにフリー宣言をしていたということ。「ゆくゆくは辞めます」と、言い放ち、それでも合格。
「今の人は“スタビリティ(=安定)”を求めると思いますが、僕にはまったくそういうのがなくて。なんだったら大学だって卒業しなくてもいいやって思ってたほど。形にこだわるのはナンセンスだと。そんなことより経験が第一。それに関してはアメリカでさんざん得てきたわけで」
そして、宣言通り89年に退社、生島企画室という事務所を設立。ある恩人が番組を用意してくれたのと、時代がバブルだったのと。
「だって今と違ってすべてが右肩上がりで、そうなると人は浮かれるもので。“もう辞めるっきゃないでしょう!”って(笑)」
しかし、ぶっちゃける人である。“形にこだわらない”という発言を見事に実践している。だって「00年ごろまでは順調にテレビの仕事も続いてたんですけど、今度は僕のタレントとしてのバブルが弾けるんですよ(笑)」とか平気で言っちゃうのだから。そういう部分でカッコつけるということがない。それがうまく発揮されてハマったのが今、メインでやっているラジオだったのだ。
「最初はね、“誰か聴いてるのかな、朝5時だよ”って思ってたんです。でもやってみると楽しかった。実際には、目覚めの主婦やタクシードライバーなど、驚くほどの人が聴いてくださっていて、講演に行くと多くの人が声をかけてくれるんです。ラジオはリスナーとの距離が近い。それに自由が利くから。僕は予定調和がダメな人間なので。でもそのうち、僕のことを面白いと応援してくれるスポンサー企業が出てきて、あまつさえ、その会社の代理店もやれって言ってくれたんですね!」
それを機に、生島企画室のあり方も大きく変わったという。浅野温子や優木まおみらが所属する芸能プロダクションとしても躍進。 でいて、件のラジオにおいては呆れるほどの自然体でしゃべり続けている。
他人のレポート中になめていたはちみつをこぼし、天気予報を言い終えた気象予報士にすぐ「続いて天気予報です」と呼びかけ、豪快なくしゃみを平気で電波に乗せる。それで一部のラジオ好きからはカルト的な人気も獲得している。
「人生、何があるかわかりませんね」と、マジメな顔をして言う。大学とかアメリカとかラジオの話だけでなく、そうなのだ。生島さん、東日本大震災で実の妹さんとその旦那さんを亡くした。
「ただひとつ言えるのは、どんな状況にあってもめげないこと。“揺れても沈まず”。嵐に遭って船がどれだけ揺れても、沈まなければ、嵐の後にまた航海を続けることができる。沈まないためには…希望ですよね。今、メディアからは楽しい情報はあまり聞こえてきません。危機感が煽られるものばかり。でも上を向く。みんなが基本、下を向いているときだからこそ、ちょっとでも上を向くと、それだけでみんなよりずっと上を向いていることになるんだと、僕は思っています」
ロングインタビュー「生島ヒロシ」いくしま・ひろし
1950年12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年、単身渡米。75年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。翌年TBS入社。『アッコにおまかせ!』『ザ・ベストテン』などで人気アナウンサーの座を不動に。89年に独立。以降、フリーアナウンサーとして、TV、ラジオ、講演、司会、本の出版などでも活躍。NPO日本食育インストラクター、eco検定、ファイナンシャルプランナーなど、様々な資格を持つことでも知られる。『生島ヒロシのおはよう定食・一直線』(TBSラジオ系)は月~金、朝5時30分から放送中
(R25編集部)
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全然注意せず見れば、「昔、局アナだった人」だ。
でも、この人、相当な“タマ”なのである。
バリバリのバイリンガルにして空手の有段者。
己の人生をいつもゼロからグリグリ切り開き、
なにものにも縛られず自由に生き続ける。
口下手で赤面症だった気仙沼の子どもが、
いかに人生を作り上げてきたか…そんなお話。
口下手の大学デビュー。
そして空手での渡米
「一切仕送りがなかったので、バイトはやりましたね。港での肉体労働に、映画のエキストラ、ホテルの配膳サービス…。エキストラに関しては、後半の方になると、自分で人材の手配を仕切るようなこともしていました(笑)」
大学時代のエピソードだ。
「“お宅のイクシマとベニー・ユキーデを対戦させたい”って(笑)。当時は全然知らなくて、後に聞いたんですけど、そういうオファーがあったらしいんですね。たぶんボコボコにやられてたでしょうけどね。僕にもその(ベニーと戦う)ぐらいの魅力はあったのかも。少しは速かったし(笑)」
こちらはアメリカ遊学時代のエピソード。ベニー・ユキーデは、70年代にデビューしたアメリカのキックボクサーだ。
早朝のTBSラジオの冠番組が大人気。番組における広告の費用対効果は、すべてのテレビ・ラジオ番組のなかで最高の部類らしい。
屈託なくニコニコ語ってくれる話がいちいち面白いのだが、最近出した『口下手な人のためのスピーチ術』という新書によると、かつては赤面症で、人前で話すことがえらく苦手だったという。
「そのときのイライラ感や不安が手に取るようにわかるので、そんな人たちにも自信を持ってしゃべれるようになってほしいと思って、この本を書きました」
TBSの局アナやフリーアナウンサーとして培った技術や、インタビューをはじめ様々な取材、ラジオパーソナリティとしての経験を取り入れ、人前で話す極意を教えてくれる。
…というような、本の宣伝も兼ねた取材なのだが、生島さんのオモシロ青春トークがとまらない。
宮城県気仙沼市に生まれ、大学進学で上京したのが、学生運動華やかなりし1969年。大きな目標としては「赤面症と引っ込み思案の克服」があったのだが…。
「東京は毎日が刺激的で! うわぁ池袋スゴイ! 新宿スゴイ!と(笑)。来てすぐ、時給120円で『藪そば』の皿洗いのアルバイトを始め、僕、格闘技が好きなものですから、大学で空手の同好会に入り、学生運動の闘士に出会って“人は平等に暮らせないといけないな”なんて考えて」
冒頭のアルバイト列伝はそんななかでの話。完全に“大学デビュー”といっていい。で、学生運動が盛り上がるも、生島さん自身は、主張と自身の日常とのギャップに折り合いが付けられず挫折。そのタイミングでアメリカ行きの話が出てきた。
「空手の先生が“アメリカで空手の指導を手伝ってくれ”と。池袋で興奮している人間にアメリカってねえ…(笑)。で、急遽、五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』なんて読んだりしながら旅立つわけですよ、片道切符でね」
時に71年。1ドル360円の時代。将来のことなど何も考えていなかったという。
「ただ、見知らぬ国でイチから自分で何ができるか試してみたかった、というだけですね」
この人の、何がどう引っ込み思案だというのか…。
いつもすべてゼロから。
どんなときも上を向いて
アメリカでは最初、空手道場に住み込み。空手の指導と空手ショーを生業にしていた。ベニー・ユキーデ戦のオファーもこのころだ。だが、ほどなくリストラ。空手を頼りに来たのにむちゃくちゃだ。
「アメリカはそのへんシビアですから(笑)。まあ僕も学校には行きたいとも思っていたので」
またバイト。テーマパーク併設のホテルでハウスキーパーをやり、アメリカ人家庭に住み込みで雑役をこなし、いちご畑でいちご摘み…アメリカに来て丸2年を過ごし、手元には2000ドルの現金が貯まっていた。そして近くの短大を経てカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学。日本での一般教養課程が認められ、3年生からの編入となる。
ここで選んだのが、ジャーナリズム科。将来の目標が見えたのだ。
「日本でもテレビやラジオには憧れてました。ラジオの深夜放送が好きで、僕なんか図抜けてカッコいいわけではないので、パーソナリティはいけるかもなと漠然と思っていて(笑)。あと、アメリカのトークショーね。ゲストの魅力をうまく引き出して視聴者に伝えるホスト役はいいなあと。そういうことが学校でできたんですよ。ディスクジョッキーのクラスをとると、ミニFMで実際に放送する。授業でトークショー作ったり。で、ロサンゼルスの日本語放送局で作家のアルバイトを始め、そのうちに実際に出演するようになって、地元じゃ結構有名人になったりして(笑)」
それだけでなく、バイトで始めた庭師の仕事が発展して、最後には人を雇って派遣する経営者になっていた。その一方で“全優”に近い成績で大学も卒業。75年に帰国するまで、一切仕送りなしでやり遂げたのだという。
翌年、25歳でTBSにアナウンサーとして入社。驚くのは最終面接ですでにフリー宣言をしていたということ。「ゆくゆくは辞めます」と、言い放ち、それでも合格。
「今の人は“スタビリティ(=安定)”を求めると思いますが、僕にはまったくそういうのがなくて。なんだったら大学だって卒業しなくてもいいやって思ってたほど。形にこだわるのはナンセンスだと。そんなことより経験が第一。それに関してはアメリカでさんざん得てきたわけで」
そして、宣言通り89年に退社、生島企画室という事務所を設立。ある恩人が番組を用意してくれたのと、時代がバブルだったのと。
「だって今と違ってすべてが右肩上がりで、そうなると人は浮かれるもので。“もう辞めるっきゃないでしょう!”って(笑)」
しかし、ぶっちゃける人である。“形にこだわらない”という発言を見事に実践している。だって「00年ごろまでは順調にテレビの仕事も続いてたんですけど、今度は僕のタレントとしてのバブルが弾けるんですよ(笑)」とか平気で言っちゃうのだから。そういう部分でカッコつけるということがない。それがうまく発揮されてハマったのが今、メインでやっているラジオだったのだ。
「最初はね、“誰か聴いてるのかな、朝5時だよ”って思ってたんです。でもやってみると楽しかった。実際には、目覚めの主婦やタクシードライバーなど、驚くほどの人が聴いてくださっていて、講演に行くと多くの人が声をかけてくれるんです。ラジオはリスナーとの距離が近い。それに自由が利くから。僕は予定調和がダメな人間なので。でもそのうち、僕のことを面白いと応援してくれるスポンサー企業が出てきて、あまつさえ、その会社の代理店もやれって言ってくれたんですね!」
それを機に、生島企画室のあり方も大きく変わったという。浅野温子や優木まおみらが所属する芸能プロダクションとしても躍進。 でいて、件のラジオにおいては呆れるほどの自然体でしゃべり続けている。
他人のレポート中になめていたはちみつをこぼし、天気予報を言い終えた気象予報士にすぐ「続いて天気予報です」と呼びかけ、豪快なくしゃみを平気で電波に乗せる。それで一部のラジオ好きからはカルト的な人気も獲得している。
「人生、何があるかわかりませんね」と、マジメな顔をして言う。大学とかアメリカとかラジオの話だけでなく、そうなのだ。生島さん、東日本大震災で実の妹さんとその旦那さんを亡くした。
「ただひとつ言えるのは、どんな状況にあってもめげないこと。“揺れても沈まず”。嵐に遭って船がどれだけ揺れても、沈まなければ、嵐の後にまた航海を続けることができる。沈まないためには…希望ですよね。今、メディアからは楽しい情報はあまり聞こえてきません。危機感が煽られるものばかり。でも上を向く。みんなが基本、下を向いているときだからこそ、ちょっとでも上を向くと、それだけでみんなよりずっと上を向いていることになるんだと、僕は思っています」
ロングインタビュー「生島ヒロシ」いくしま・ひろし
1950年12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年、単身渡米。75年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。翌年TBS入社。『アッコにおまかせ!』『ザ・ベストテン』などで人気アナウンサーの座を不動に。89年に独立。以降、フリーアナウンサーとして、TV、ラジオ、講演、司会、本の出版などでも活躍。NPO日本食育インストラクター、eco検定、ファイナンシャルプランナーなど、様々な資格を持つことでも知られる。『生島ヒロシのおはよう定食・一直線』(TBSラジオ系)は月~金、朝5時30分から放送中
(R25編集部)
ロングインタビュー「生島ヒロシ」はコチラ
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