「建築は、これからもっと面白い。」
東日本大震災後の建築を、今、考え始めたわけではない。
建築が変わりつつある予感はもっと前からあった。
それは奇しくも東北で身につけてきた方法。
東京ミッドタウン、根津美術館、歌舞伎座…
日本と世界で無数のプロジェクトを動かす建築家の
挫折と発見の話。“襞”と場所の話。
建築のこれからの話。
隈建築における
東北的方法とは何か
「僕の中で“東北的方法”と名付けているものに光が当たる状況になってきたと思います」
外苑前の事務所ビルの4階。テラスのような吹きさらしの空間に、ガラスと鉄骨の部屋がポンと置かれたような構造。隣は「青山」という地名の由来になった郡上藩主・青山家の菩提寺である梅窓院。北西600mほどのところには、木の細長い板で建物を覆った「ONE表参道」。1kmほど南東には「サントリー美術館」に、「東京ミッドタウン ガーデンサイド」。いずれも隈 研吾の建築。
もう少し離れて、銀座では、新しい歌舞伎座が建設中だし、スコットランドやスペイン、フランスなどでもプロジェクトが進行中。
そんな建築家・隈 研吾に、最初に尋ねたのが「これから建築はどうなっていくのか」。そしてその答えが、冒頭の「東北的方法」。
「僕自身、東北で初めて仕事をしたのが1995年ごろ。宮城県の登米能楽堂です。それを皮切りに、東北で10件ぐらい小さな仕事をしました。北上川を下り、石巻で仕事をして、福島に下りてきて、栃木に下りてきて…。それが“ハマッた”んですよ」
隈さん、現在57歳。まごうことなく第一線の建築家であるが、この当時は不遇だった。東京大学大学院修了後、いくつかの建設会社で働き、アメリカ留学を経て、華々しくデビュー。ある広告代理店と共同で、マツダの子会社の本社ビル「M2」を建てたのが91年。建物の中央にイオニア式の巨大な柱を配し、あちこち壊れたような意匠を施して「東京の混沌を建築にした」が、運悪く、バブルが崩壊。バブルの象徴のように見られ、東京での仕事がぱったりなくなった。東北からの依頼は、そんな折。
「行ってみると予算がない。東京だと“木曽のヒノキを取り寄せていい数寄屋を造ろう”っていう話になるのが、たとえば登米なら、地元の節だらけのヒバを使うしかない。新しい建築の方法どころじゃない。当時は、与えられた厳しい問題をいかに解くかに必死でした」
そうしてできた「森舞台」(登米の能楽堂)は、ヒノキの代わりにヒバで舞台を作り、屋根は地元産の天然スレートで葺いた。何より大きかったのは、能舞台を入れる建物を造らなかったこと。予算の問題と、隈さん自身の「能舞台は屋外」というポリシーが合致したから。結果、舞台は吹きさらしの雨ざらし。コンクリートの建物の代わりに、周りを取り囲む森が“器”になった。
ここから東北で仕事を重ねるうち、新しい建築の方法が確立されてきた。予算の少ない地方の仕事なら何でもよかったわけではない。「東北だった」という理由が、大きい。
「結局、地形が大きいと思うんですよ。東北は“襞”です。関東平野みたいに大きいフラットの場所ではなく、海岸線が襞になって町と町とを分断している。水平だけでなく山も立体的な襞になって、場所を区画している。だから、そこに固有の何かが濃いまま残ってるんですね」
バブル以前、東京でしていた仕事の多くは、コストとスケジュールを優先した建設会社主導のプロジェクト。東北では「考える人も作る人も使う人も、地元の、そこから生えているような人たち」との仕事。
だから、容易に“固有の何か”が濃く出た。宮城から南下しながら、それを取り込んで建築にする作業は繰り返され、栃木で「那珂川町馬頭広重美術館」を造ったとき、隈さん、その「方法」を自覚した。
欲望の20世紀的方法から
場所の東北的方法へ
「“建築家=人工的なものを構築して気持ちいい環境を作ろうとする人”って、みんなは考えるかもしれない。まあそういうタイプの建築家もいっぱいいるけど(笑)。僕は、人間ができることなんてたかが知れてると思う。人間以上に力のある自然、そこで生活している人たちの佇まい…そういう“場所の力”をうまく引き出しさえすれば建築家の仕事は終わるわけで、建築家という個人が、自分の中にあるものだけで作ろうとして、場所に勝てるわけがないと僕は思うんです」
それが「東北的方法」。
「まあ東北の後に、四国の梼原町っていう、そこも“襞”になっている山奥の町で仕事をしたけど(笑)。ともあれ、東北で身につけたり学んだりしたことを、世界のいろんな場所で実践する…これが今の僕の仕事のやり方になっています」
イジワルな目線で考えると、東大の大学院を出て、時代の寵児になりかけた建築家が、よくも地方の(しかも安い)仕事に真摯に取り組んだものだ。でも隈さん、昔から軽くひねくれていた。
大学院では、“あえて”デザインではなくアフリカの集落を調査する原広司研究室に入り、卒業後も、おしゃれなアトリエ系設計事務所で有名建築家の弟子になる道もあったのに、ゼネコンと組織設計事務所で“あえて”働いた。
「みんなが“イイ!”って言うものに対して、なんだか“違うんじゃねえの”って思えてきちゃうタチなんです。そこでみんなが面白いというものは、たぶん5年経ったら面白くなくなってる(笑) 。だから、強がりでも“おれはみんなとは違うぞ”って思うところから、新しい価値観が生まれる気がする」
そして、柔軟性も。
東北や四国の“襞”のイメージは湧きやすい。では東京にも…たとえば隈さんが今手がけている歌舞伎座にも、それはあるのだろうか。
「僕らは東京というものをひとくくりに考えるから、均一のメガロポリスに見えてしまう。でもあるんです。歌舞伎座に関して言うと、実は移転する計画もありました。でも“木挽町(歌舞伎座界隈の旧町名)でなくてはダメだ”という声がたくさん挙がって。少し東の築地寄りになっても、少し西の銀座寄りになってもダメだって言うんですね」
声を挙げたのは歌舞伎座に何十年も通い続けてきた人たちだ。
「その場所に親しんだ人には、場所固有のものがしっかり見えている。それで歌舞伎座は、新築後も正面のファサードを守るだけじゃなく、脇の木挽町の通りを守ろうと。今ある風情をもっと磨いて、“江戸時代にはどんな佇まいだったのか”というところにまで寄って“通りのデザイン”をしようということになりました。自然環境だけじゃなくて、人間が作った環境も、時間が経ってくると自然の襞と同じように人と一体になっていろんな匂いが染みついていい感じに発酵したものになってくる…それがわかってきました」
では、いよいよ核心。そうした「東北的方法」が、これからの建築において「光が当たる状況」になってきたという話。「これから」というのは、もちろん「東日本大震災以降の」という意味を含む。だが隈さんが言うには、それを思ったのは、震災が契機ではなかった、と。「東北的方法」を発見したのと同じころから建築の未来を考え始めたのだ。
「バブルが崩壊し、失われた10年があり、リーマンショックがあり、建築における20世紀的方法…それはつまり、個人の欲望を建築に変えるというやり方だと思うんだけど、それが破綻していたんだと思う」
この20年、建築は受難の時代であったと隈さんは言う。ハコモノ行政や環境破壊の象徴として、様々なバッシングを受けてきた。
「それまでの20世紀的文明の中では結構大きな主役の座を張っていて、経済を引っ張っていくのは建築だといわれていて、“大手ゼネコン”なんて、その旗手だったのに、急に悪役になってしまい(笑)、そうした影響を受けて建築学科志望の学生も目に見えて減っている」
でも、隈さんは、「これからまた建築は面白い!」と断言する。
「20世紀的方法は、場所とは関係なく建物だけで完結するものを作っていたけれど、東北的方法は、その場所の材料を使って、その土の上に何かを作る仕事。これからは“場所の時代”。土の上に一品生産で物を作っていく仕事こそがもっとも必要とされると思うんです。だから、もう一回、若者たちは建築の面白さを再発見しなさい。見るだけでも面白い。デザインの“奥にあるもの”を見てください。ガラスやアルミサッシなどの工業製品にも、背景のストーリーがある。そして意外と場所と密接にかかわってる。そこを見ると面白いよ」
ロングインタビュー「隈 研吾」くま・けんご
1954年神奈川県生まれ。建築家、東京大学工学部教授。東京大学大学院修了。建設会社勤務を経て、コロンビア大学に留学。86年、空間研究所設立。90年、隈研吾建築都市設計事務所設立。登米の「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」は97年日本建築学会賞受賞、「那珂川町馬頭広重美術館」は村野藤吾賞受賞。11年「梼原 木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)他受賞多数。 http://kkaa.co.jp/
(R25編集部)
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建築が変わりつつある予感はもっと前からあった。
それは奇しくも東北で身につけてきた方法。
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日本と世界で無数のプロジェクトを動かす建築家の
挫折と発見の話。“襞”と場所の話。
建築のこれからの話。
隈建築における
東北的方法とは何か
「僕の中で“東北的方法”と名付けているものに光が当たる状況になってきたと思います」
外苑前の事務所ビルの4階。テラスのような吹きさらしの空間に、ガラスと鉄骨の部屋がポンと置かれたような構造。隣は「青山」という地名の由来になった郡上藩主・青山家の菩提寺である梅窓院。北西600mほどのところには、木の細長い板で建物を覆った「ONE表参道」。1kmほど南東には「サントリー美術館」に、「東京ミッドタウン ガーデンサイド」。いずれも隈 研吾の建築。
もう少し離れて、銀座では、新しい歌舞伎座が建設中だし、スコットランドやスペイン、フランスなどでもプロジェクトが進行中。
そんな建築家・隈 研吾に、最初に尋ねたのが「これから建築はどうなっていくのか」。そしてその答えが、冒頭の「東北的方法」。
「僕自身、東北で初めて仕事をしたのが1995年ごろ。宮城県の登米能楽堂です。それを皮切りに、東北で10件ぐらい小さな仕事をしました。北上川を下り、石巻で仕事をして、福島に下りてきて、栃木に下りてきて…。それが“ハマッた”んですよ」
隈さん、現在57歳。まごうことなく第一線の建築家であるが、この当時は不遇だった。東京大学大学院修了後、いくつかの建設会社で働き、アメリカ留学を経て、華々しくデビュー。ある広告代理店と共同で、マツダの子会社の本社ビル「M2」を建てたのが91年。建物の中央にイオニア式の巨大な柱を配し、あちこち壊れたような意匠を施して「東京の混沌を建築にした」が、運悪く、バブルが崩壊。バブルの象徴のように見られ、東京での仕事がぱったりなくなった。東北からの依頼は、そんな折。
「行ってみると予算がない。東京だと“木曽のヒノキを取り寄せていい数寄屋を造ろう”っていう話になるのが、たとえば登米なら、地元の節だらけのヒバを使うしかない。新しい建築の方法どころじゃない。当時は、与えられた厳しい問題をいかに解くかに必死でした」
そうしてできた「森舞台」(登米の能楽堂)は、ヒノキの代わりにヒバで舞台を作り、屋根は地元産の天然スレートで葺いた。何より大きかったのは、能舞台を入れる建物を造らなかったこと。予算の問題と、隈さん自身の「能舞台は屋外」というポリシーが合致したから。結果、舞台は吹きさらしの雨ざらし。コンクリートの建物の代わりに、周りを取り囲む森が“器”になった。
ここから東北で仕事を重ねるうち、新しい建築の方法が確立されてきた。予算の少ない地方の仕事なら何でもよかったわけではない。「東北だった」という理由が、大きい。
「結局、地形が大きいと思うんですよ。東北は“襞”です。関東平野みたいに大きいフラットの場所ではなく、海岸線が襞になって町と町とを分断している。水平だけでなく山も立体的な襞になって、場所を区画している。だから、そこに固有の何かが濃いまま残ってるんですね」
バブル以前、東京でしていた仕事の多くは、コストとスケジュールを優先した建設会社主導のプロジェクト。東北では「考える人も作る人も使う人も、地元の、そこから生えているような人たち」との仕事。
だから、容易に“固有の何か”が濃く出た。宮城から南下しながら、それを取り込んで建築にする作業は繰り返され、栃木で「那珂川町馬頭広重美術館」を造ったとき、隈さん、その「方法」を自覚した。
欲望の20世紀的方法から
場所の東北的方法へ
「“建築家=人工的なものを構築して気持ちいい環境を作ろうとする人”って、みんなは考えるかもしれない。まあそういうタイプの建築家もいっぱいいるけど(笑)。僕は、人間ができることなんてたかが知れてると思う。人間以上に力のある自然、そこで生活している人たちの佇まい…そういう“場所の力”をうまく引き出しさえすれば建築家の仕事は終わるわけで、建築家という個人が、自分の中にあるものだけで作ろうとして、場所に勝てるわけがないと僕は思うんです」
それが「東北的方法」。
「まあ東北の後に、四国の梼原町っていう、そこも“襞”になっている山奥の町で仕事をしたけど(笑)。ともあれ、東北で身につけたり学んだりしたことを、世界のいろんな場所で実践する…これが今の僕の仕事のやり方になっています」
イジワルな目線で考えると、東大の大学院を出て、時代の寵児になりかけた建築家が、よくも地方の(しかも安い)仕事に真摯に取り組んだものだ。でも隈さん、昔から軽くひねくれていた。
大学院では、“あえて”デザインではなくアフリカの集落を調査する原広司研究室に入り、卒業後も、おしゃれなアトリエ系設計事務所で有名建築家の弟子になる道もあったのに、ゼネコンと組織設計事務所で“あえて”働いた。
「みんなが“イイ!”って言うものに対して、なんだか“違うんじゃねえの”って思えてきちゃうタチなんです。そこでみんなが面白いというものは、たぶん5年経ったら面白くなくなってる(笑) 。だから、強がりでも“おれはみんなとは違うぞ”って思うところから、新しい価値観が生まれる気がする」
そして、柔軟性も。
東北や四国の“襞”のイメージは湧きやすい。では東京にも…たとえば隈さんが今手がけている歌舞伎座にも、それはあるのだろうか。
「僕らは東京というものをひとくくりに考えるから、均一のメガロポリスに見えてしまう。でもあるんです。歌舞伎座に関して言うと、実は移転する計画もありました。でも“木挽町(歌舞伎座界隈の旧町名)でなくてはダメだ”という声がたくさん挙がって。少し東の築地寄りになっても、少し西の銀座寄りになってもダメだって言うんですね」
声を挙げたのは歌舞伎座に何十年も通い続けてきた人たちだ。
「その場所に親しんだ人には、場所固有のものがしっかり見えている。それで歌舞伎座は、新築後も正面のファサードを守るだけじゃなく、脇の木挽町の通りを守ろうと。今ある風情をもっと磨いて、“江戸時代にはどんな佇まいだったのか”というところにまで寄って“通りのデザイン”をしようということになりました。自然環境だけじゃなくて、人間が作った環境も、時間が経ってくると自然の襞と同じように人と一体になっていろんな匂いが染みついていい感じに発酵したものになってくる…それがわかってきました」
では、いよいよ核心。そうした「東北的方法」が、これからの建築において「光が当たる状況」になってきたという話。「これから」というのは、もちろん「東日本大震災以降の」という意味を含む。だが隈さんが言うには、それを思ったのは、震災が契機ではなかった、と。「東北的方法」を発見したのと同じころから建築の未来を考え始めたのだ。
「バブルが崩壊し、失われた10年があり、リーマンショックがあり、建築における20世紀的方法…それはつまり、個人の欲望を建築に変えるというやり方だと思うんだけど、それが破綻していたんだと思う」
この20年、建築は受難の時代であったと隈さんは言う。ハコモノ行政や環境破壊の象徴として、様々なバッシングを受けてきた。
「それまでの20世紀的文明の中では結構大きな主役の座を張っていて、経済を引っ張っていくのは建築だといわれていて、“大手ゼネコン”なんて、その旗手だったのに、急に悪役になってしまい(笑)、そうした影響を受けて建築学科志望の学生も目に見えて減っている」
でも、隈さんは、「これからまた建築は面白い!」と断言する。
「20世紀的方法は、場所とは関係なく建物だけで完結するものを作っていたけれど、東北的方法は、その場所の材料を使って、その土の上に何かを作る仕事。これからは“場所の時代”。土の上に一品生産で物を作っていく仕事こそがもっとも必要とされると思うんです。だから、もう一回、若者たちは建築の面白さを再発見しなさい。見るだけでも面白い。デザインの“奥にあるもの”を見てください。ガラスやアルミサッシなどの工業製品にも、背景のストーリーがある。そして意外と場所と密接にかかわってる。そこを見ると面白いよ」
ロングインタビュー「隈 研吾」くま・けんご
1954年神奈川県生まれ。建築家、東京大学工学部教授。東京大学大学院修了。建設会社勤務を経て、コロンビア大学に留学。86年、空間研究所設立。90年、隈研吾建築都市設計事務所設立。登米の「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」は97年日本建築学会賞受賞、「那珂川町馬頭広重美術館」は村野藤吾賞受賞。11年「梼原 木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)他受賞多数。 http://kkaa.co.jp/
(R25編集部)
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