年末も押し迫り、そろそろ今年の映画の自分的ランキングも固まってきたかなーと思っていたら、ここへきてとんでもない作品が滑り込んできた。
「ミツコ感覚」だ。
【関連写真】「ミツコ感覚」フォトギャラリー
一言でいうと……いや、とても一言ではいえない映画なのだが、それでも一言で無理やり表すなら“不愉快な映画”である。などと書くと、「ああ、悪い意味でとんでもない作品なのね」と勘違いされそうだが、そうではない。本作はその不愉快なところこそ素晴らしいのである。
舞台は東京郊外の小さな町。主人公のミツコは写真学校の学生だが、就職の道もなく姉のエミと二人で暮らしている。エミは町の小さな会社でOLとして働きながら、上司で妻子持ちの松原と不倫中だ。家主である父親はわけあって家にはおらず、二人は近いうちに住み慣れたこの家を出て行かなければならない。普通と言えば普通だが、どこかいびつな家庭で暮らす二人の姉妹。そんなある日、三浦と名乗る挙動不審な男が現れ、口からでまかせの嘘を並べてミツコに近づいてくる。三浦を恐れるミツコだが、姉のエミはそんな三浦の嘘を信じて受け入れてしまう――。
ミツコ、エミ、松原、三浦。登場する人物たちは皆どこかおかしく、何かがズレた人間ばかりだ。ストーカーまがいの行動を繰り返す三浦はもちろん、エミも松原も、そしてミツコも、皆どこか病んでおり、いびつな関係を築いている。この“少しずつ全部ズレている”感覚こそが、冒頭で述べた本作の不愉快さにつながっているのである。 しかし、ズレてはいるものの、ギリギリのところで破綻はしていない。三浦という異常な男がトリガーとなって、それぞれの人間関係のいびつさが浮き彫りになりはするが、狂っているとまでは言えない。ではなぜこんなにも彼らの言動が不愉快なのか。それは、彼らのいびつさは、僕らにも当てはまるものだからだ。僕らが日々の生活で少しずつ経験し、そのたびに修正したりしなかったりしている“日常のいびつな部分”を、本作はすくい上げ、ろ過し、目に見える形にして突きつけてくるのだ。
たとえば冒頭で三浦がミツコに突然話しかけてくるシーン。三浦はいぶかしがるミツコの問いかけに、何ひとつ明瞭な答えを返さない。カメラ雑誌の編集者を名乗り、姉のエミの同級生を騙り、口から出る言葉はすべて嘘だらけである。ヘラヘラと笑い、「あれ」や「それ」などの指示語ばかりを用いてごまかしごまかし喋る。あまりにも極端なので見ている側としては違和感を覚えるが、しかしその直後にミツコとエミと、エミの不倫相手である松原の会話シーンでも、やはり松原がヘラヘラと笑い、指示語ばかりで曖昧なしゃべり方をする。そして見ている側はハッと気づかされる。「彼らは奇妙に見えるだけで、ごく当たり前にそのへんにいる普通の人なのだ」と。人間なら誰しもが何かを曖昧にごまかすことで生きている。その曖昧さは必要悪ではあるが、しかし改めてはっきりと客観的に見せられると何とも不愉快だ。しかしだからこそ、この奇妙な世界観から見ている側は抜け出せなくなってしまう。
そんな微妙なバランス感覚を保ったまま、“奇妙でいびつな普通の人々”を撮りきった山内ケンジ監督の手腕は凄まじいものである。本作が第一回監督作品というからいったい何者かと思って調べたら、CMクリエイターとして「ヤキソバン」や「白戸家」などを手がけている他、舞台の作・演出家としても活躍している人物であった。なるほど、たしかに本作は映画というよりも演劇に近い。
どうにも奇妙で不愉快で、何だかむずがゆい感覚に陥ってしまう「ミツコ感覚」。好き嫌いは分かれると思うが、本稿で多少なりとも興味を持った方なら間違いなく見て損はしないと断言できる。(文:山田井ユウキ)
■関連記事
序盤のスローな展開にムズムズ、雰囲気映画としては完璧の「源氏物語 千年の謎」
「怪物くん」を演じた嵐・大野、実年齢よりも若く見えるルックスは神秘的
遺品整理業の丁寧な描写に好感が持てる「アントキノイノチ」。岡田将生の演技にも注目
一見すると地味な女優に“無自覚なエロス”「恋の罪」はすべてにおいて圧巻
「ミツコ感覚」だ。
【関連写真】「ミツコ感覚」フォトギャラリー
一言でいうと……いや、とても一言ではいえない映画なのだが、それでも一言で無理やり表すなら“不愉快な映画”である。などと書くと、「ああ、悪い意味でとんでもない作品なのね」と勘違いされそうだが、そうではない。本作はその不愉快なところこそ素晴らしいのである。
舞台は東京郊外の小さな町。主人公のミツコは写真学校の学生だが、就職の道もなく姉のエミと二人で暮らしている。エミは町の小さな会社でOLとして働きながら、上司で妻子持ちの松原と不倫中だ。家主である父親はわけあって家にはおらず、二人は近いうちに住み慣れたこの家を出て行かなければならない。普通と言えば普通だが、どこかいびつな家庭で暮らす二人の姉妹。そんなある日、三浦と名乗る挙動不審な男が現れ、口からでまかせの嘘を並べてミツコに近づいてくる。三浦を恐れるミツコだが、姉のエミはそんな三浦の嘘を信じて受け入れてしまう――。
ミツコ、エミ、松原、三浦。登場する人物たちは皆どこかおかしく、何かがズレた人間ばかりだ。ストーカーまがいの行動を繰り返す三浦はもちろん、エミも松原も、そしてミツコも、皆どこか病んでおり、いびつな関係を築いている。この“少しずつ全部ズレている”感覚こそが、冒頭で述べた本作の不愉快さにつながっているのである。 しかし、ズレてはいるものの、ギリギリのところで破綻はしていない。三浦という異常な男がトリガーとなって、それぞれの人間関係のいびつさが浮き彫りになりはするが、狂っているとまでは言えない。ではなぜこんなにも彼らの言動が不愉快なのか。それは、彼らのいびつさは、僕らにも当てはまるものだからだ。僕らが日々の生活で少しずつ経験し、そのたびに修正したりしなかったりしている“日常のいびつな部分”を、本作はすくい上げ、ろ過し、目に見える形にして突きつけてくるのだ。
たとえば冒頭で三浦がミツコに突然話しかけてくるシーン。三浦はいぶかしがるミツコの問いかけに、何ひとつ明瞭な答えを返さない。カメラ雑誌の編集者を名乗り、姉のエミの同級生を騙り、口から出る言葉はすべて嘘だらけである。ヘラヘラと笑い、「あれ」や「それ」などの指示語ばかりを用いてごまかしごまかし喋る。あまりにも極端なので見ている側としては違和感を覚えるが、しかしその直後にミツコとエミと、エミの不倫相手である松原の会話シーンでも、やはり松原がヘラヘラと笑い、指示語ばかりで曖昧なしゃべり方をする。そして見ている側はハッと気づかされる。「彼らは奇妙に見えるだけで、ごく当たり前にそのへんにいる普通の人なのだ」と。人間なら誰しもが何かを曖昧にごまかすことで生きている。その曖昧さは必要悪ではあるが、しかし改めてはっきりと客観的に見せられると何とも不愉快だ。しかしだからこそ、この奇妙な世界観から見ている側は抜け出せなくなってしまう。
そんな微妙なバランス感覚を保ったまま、“奇妙でいびつな普通の人々”を撮りきった山内ケンジ監督の手腕は凄まじいものである。本作が第一回監督作品というからいったい何者かと思って調べたら、CMクリエイターとして「ヤキソバン」や「白戸家」などを手がけている他、舞台の作・演出家としても活躍している人物であった。なるほど、たしかに本作は映画というよりも演劇に近い。
どうにも奇妙で不愉快で、何だかむずがゆい感覚に陥ってしまう「ミツコ感覚」。好き嫌いは分かれると思うが、本稿で多少なりとも興味を持った方なら間違いなく見て損はしないと断言できる。(文:山田井ユウキ)
■関連記事
序盤のスローな展開にムズムズ、雰囲気映画としては完璧の「源氏物語 千年の謎」
「怪物くん」を演じた嵐・大野、実年齢よりも若く見えるルックスは神秘的
遺品整理業の丁寧な描写に好感が持てる「アントキノイノチ」。岡田将生の演技にも注目
一見すると地味な女優に“無自覚なエロス”「恋の罪」はすべてにおいて圧巻